パセリ

人間っていうのは中々元の根っこの部分というのは変わらない生き物のようで、自分の価値観の外からきた考え方を受け入れよう、とその場では取り繕っても意識をしてないとすぐにまた自分、に戻ってしまう、それが悪いのか悪く無いかは置いとくとして、やはり中々に人は変わらないものなんである、

SMAPというスーパーアイドルグループのパセリだかセロリだか、っていう歌に育ってきた環境が違うから価値観は否めない、という歌詞がある。本当にその通り、そのあとにだから妥協してみたりするのね、みたいに歌は続くんだけど、それが中々にできない人、って言うのは自分を含めてすごい沢山いる、妥協してみたりできない結果、単純に君の事好きなのさぁ〜、とは言えなくなる。だがやはりそこはSMAPなので妥協できなかった結果結局そこから溝が生まれてしまい単純な好きでは割り切れなくなったところから負のスパイラルが生まれ、関係が駄目になりました。とは歌われない。それはSMAPだから

では自分を形成する価値観とはなんなのか、育ってきた環境だけのものなのか、と考えてみるとその人の「キャラ」とかも関係してくると思う。現代はSNSの時代、誰もが誰もアカウントという個人の意見や生活を発表する場所を持ち別に知りたくもないおっさんが会社で疲れた話やギャルが飲んだタピオカ、道端に捨てられたタピオカ、ヤクザの資金源になっているタピオカ、などがインスタグラムやツイッターなどで毎日の様に発信され我々は興味のある、無しに関わらずタイムラインに並んだ色とりどりのタピオカを毎日の様に観覧している、中にはなんだこのタピオカは!と他人のタピオカに文句を垂れる人も現れる始末、そうしてみんながみんなタピオカを発信する様な時代がきてしまったのでバンドなんてやってなくてもみんながみんな主人公であり、みんながみんな誰かの脇役でタピオカなのだ、何気無い当たり前の生活やタピオカをみんなが発表し、みんなが見ている事になる。

人は誰かに発信する側に立つとある種のキャラクターを作り出すのである。

よくツイッターのイメージと違いますね、と人が言っている光景を見た事があるし、もしかしたら自分でも言ったことがあるでしょう。

あぁ神宮さんってツイッターで見るよりあんまり、なんて言うか、普通ですね、なんて言われて、うふふ、そうでしょうそうでしょう、人なんてね、思われてるキャラと実物は結構違うものなんでございやすよ旦那、うふふ、うふふふなんてあほヅラで笑ってる頭の中で「面白くないって言えー!ボケー!違うだろぉ!違うだろぉ!このハゲー!!」って怒鳴ったりする事もあります。

私はこの人が作った自分、人に見られた結果作り上げてしまった自分に、本当の姿が歪曲させられるのが怖い、別に戦後の人ってわけでは無いけれどこの人に見られる事によって作り上げられてしまったキャラの自分に寄せよう寄せよう、みたいになってる人が凄く増えたなぁ〜、と何となく思うわけです。

音楽なんてやってると最近は特にキャラクター商売みたいなところもあるのは否めない部分もあるから個性を無理矢理に、まるでニンニクや生姜のチューブをひねり出すかの如くにひねり出してこれが私です!って発表してそれに向かってどんどんどんどん自分の城を築いていってガッチガチになっていってる様に見えてしまうんです。

僕はどんな風に見えているのか、そして見えている部分にどんな誤解があるのか、うーん、それを考えると頭が物凄く痛くなってきた。

昔から誤解を受けやすいタイプの自分はこの問題をこれ以上考えると気が狂ってしまいそうです。

できるならそのままの姿を見せたいものです、素直に柔軟に、キャラや城やタピオカをぶち壊し、道に捨て、そのままの姿でいい方向に変わっていきたい。そしてできる事ならブログやツイッターなんかより実物の方が面白い人でありたい。